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見る



「見ること」

は個人的で、不安定で、孤独な作業。

どんなに近くにいても、どんなに願っても
他人と同じものを見ることはできない。
自分の過去から、自分のいる場所からしか見えない。

先日、大学に小栗康平監督がやってきた。
彼の映画はには目を見張るような展開もアクションもない。
ゆるゆると映画はつづく。「退屈」と評されることも多い。

新作「埋もれ木」は、見事な彼のファンタジー嗜好が
あらわれた作品だった。

とにかく「ストーリーを追うことだけが映画じゃない」と
彼は埋もれ木の封切りの前に言っていた。

確かに、どんなに良かったと思う映画も
全てのプロットを覚えているわけではない。
だんだんとプロットは会話になり言葉になり、
最後に記憶に残るのは断片。
するとイメージの持つ力の強さを思い知ることになる。
埋もれ木はそういった「イメージ」の映画だった。

懐かしくも、どこか寓話的なシーンの数々。
どこか浮世離れした登場人物。
ラストで馬が上がるシーンの、言葉にできないカタルシス。
初めて見たときは、そういった断片的なイメージと感情を
溜めこむので精一杯だった。


彼は作品を人々に同じように見て欲しいなんて思っていなかった。
絵画のような撮り方も表現も、あえて時間の動線・フレームに乗せ
私たちが見ている土俵で見せる。
私たちは小栗の目でもって、個人の脳で持ってそれを見る。
それを、個人的に、不安定に、孤独に見る。そう思った。
だけどそれは到達点ではなかった。


どんなに見る世界が孤独でも、
「言葉によって私たちは一人ではない。」


それを聞いたとき、埋もれ木がどんな映画か分かった気がした。

これはストーリーテリングにまつわる映画だった。
夢、過去、現在には枠がなく、お互いをぼやぼやと侵食していた。
「言葉」でもって。
言葉の「疎通」が、夢、過去、現在、時間の「疎通」になった。
孤独なファンタジーではない。
非常にポジティブな映画だったのだ。

形あるもの、明確なものを信じたくないというのは私の信条だ。
何かにはたいてい、違う一面がある。
形ないもの、水のように変わるものこそ実態だと思う。


勇気付けられたのだ。
なぜ、彼の作品に引かれるのかが少し分かった。

人生の色々な時に、彼の作品を見たい。


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【2006/11/24 02:42】 | Journalとか | トラックバック(0) | コメント(0)
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